セミが落ちていた。

玄関先に、セミが仰向けになって落ちていた。

指でつついてみると、弱々しく足が動いた。辛うじて生きているという感じ。つまんで身体を起こしてみるが、地面を歩くことさえままならず、まして飛ぶだけの体力は残っていないようだった。どこにでもいるような、茶色い羽のアブラゼミだ。本当なら、こんな風に指でつかまれるとうるさく鳴くのだろうが、その体力もないのか、それともメスなのか、鳴こうとする気配もなかった。

近くに木でもあれば、せめてそこにとまらせてやろうと思ったが、僕の家の周りは住宅街だ。田んぼや雑草の生えた空き地くらいならあるが、樹木は見当たらなかった。やむをえず、近くの電信柱に止まらせようとしたが、足をひっかけるさえ難しい様子だった。

それならばせめてもと、かつて生まれてきた土の上―と言ってもプランターの小さな鉢の上だがに置いてやった。セミは、弱々しいながらも6本の足で身体を支えながら、土の感触を確かめるように、じっとしていた。

 

夏の終わりと言うにはまだ少し早いが、君はその夏を全うしたのか。

恋をしたのか。子孫を残したのか。生きる意味を確かめることが出来たのか。

 

縁もゆかりもない人間にそのようなことを思われる筋合いはないだろうが、そんなことを、僕はふと考えて。

それから、僕の生きる意味を探しにいくため、車に乗って仕事に向かった。

犀星の「小景異情」と僕

昨日8月1日は、泉鏡花徳田秋声と並んで「金沢の三文豪」と称される、室生犀星の誕生日だったそうだ。

我が郷土金沢の誇りであり、僕自身もリスペクトしてはいるが、恥ずかしながら犀星の作品はほとんど読んでいない。だが、かの「小景異情 その二」だけは、今でも諳んじることが出来るくらい、僕にとって印象的な作品だ。

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの 

 

この冒頭の2行が殊に有名だが、僕がより強く心を動かされたのは、これに続く

 

よしや

うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても

帰るところにあるまじや

 

という一節である。

 

僕は、金沢で生まれ、東京の大学に進学し、東京で就職した。

東京にいた頃の僕は、もう金沢には帰りたくないと考えていた。金沢という街は大好きだし、そこに生まれたことは誇りにさえ思う。けれど、金沢がいかに魅力的であろうともそれとは関わりなく、ただ、そこが故郷であるという一点において、強い拒否感を当時の僕は抱いていた。懐かしさは感じる。郷愁もしばしば感じる。それでも、故郷は「帰る場所」ではないと、僕は考えていた。

それは、故郷を「捨てて」東京で社会人となった以上、おめおめと故郷に戻ることなどできないという、少々気負いすぎた思い込みだったのかも知れない。別に故郷を捨てたわけでもないのだが、「捨てるくらいの気持ちを持っていないと東京でやっていくことなど出来ない」と思い込んでいたのかも知れない。

犀星の「小景異情」は、そんな風に故郷を「捨てようとしていた」僕の心情と見事にシンクロした。僕は東京で辛いことがあるたびに、「小景異情」の「帰るところにあるまじや」というフレーズを、おまじないのように心で唱えていた。故郷に帰って心休まりたいと思う自分の気持ちを、甘えと感じて、それを無理矢理に断ち切ろうとしていたのかも知れない。

 

その後色々とあって、30歳を過ぎた頃に、僕は故郷の金沢に戻った。

「帰るところにあるまじ」き故郷に再び帰ってきてしまった僕にとって、犀星の「小景異情」は、もはや気恥ずかしくて読み返すことが出来ない作品になってしまった。結婚して金沢に(正確には金沢市内ではないが)居を構えた今になっても、東京にいた頃の故郷に対する気持ちは、どこか懐かしく痛痒いような形で、僕の心のすみっこに居座っている。

楽しいことが何も思いつかないのがまずいような気がする。

また毎日更新が途切れてしまった。この機会に、ブログの方向性をしっかり考えようかな。

梅雨明けは来月になるのだろうか。まあ梅雨が明けても蒸し蒸しとした気候は変わらなさそうだが。

絆創膏を貼るとかえって治りが遅くなることがある、というのを理解してもらえない。

いやなことは多いけれど、いやなことばかりではない。