ボサノヴァと聴くための体力について

最近、通勤の車上でボサノヴァのCDをかけっぱなしにしているので、頭がいい具合にユルくなっている。ボサノヴァの独特の気怠さは、本来は晴れた休日の午後あたりによく似合いそうだが、どうしてどうして、仕事を始める前奏曲としても悪くない。

まあ、ヘヴィなサウンドやコアなリズムにはすでに耳や頭がついていかなくなっているという側面もあるのかも知れない。ロックや、そこから派生した激しいリズムを主体とする音楽ジャンルは、そのリズムの音圧で肉体に直接訴えかける力を持っているが、肉体のほうがそれについていけないと楽しめなくなってしまう。要は、聴くのにも体力がいるのである、その手の音楽は。

僕はもともとそちら方面のジャンルには疎いが、去年の紅白でのX JAPANに興奮した程度には、嫌いではない。とは言え、僕にとってロックやそれに類する音楽は、毎日聴くような音楽ではない。なくなった、というのが正しいか。大学生の頃のほんの一時期、毎日のようにヘヴィメタルの重低音に身を委ねていたものだが、結局は肌に合わなかったらしい。重ねて言うが嫌いになったのではない。聴き続ける体力がなくなったというだけのこと。

そう言えば、僕がずっと聴き続けているクラシックにしても、かつてはベートーヴェンが好きだったものがモーツァルトになったり、あるいはワーグナーチャイコフスキーになったりと好みが変わったのは、このような「聴くための体力の変化」もあるかも知れない。体力が「なくなった」、と書くのはちょっと悔しいので、「変化した」、と書いておく。

まあそんなわけで、今の僕にはボサノヴァがふさわしいのだろう。