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新盆の墓参りに思う

今日は実家の墓参りに行った。

僕の実家のある金沢では、8月ではなく新盆の7月15日前後に墓参りなどの供養をする家が多い。金沢とその周辺のスーパーマーケットなどでは、この時期に仏花や線香、ろうそく、そしてこの辺り独特の、お墓に供えるキリコという小さな灯籠などが売り場に並ぶ(参考:加賀百万石の文化・風習・名勝 | 松崎神堂店)キリコは本来は四角い提灯のような形をしているが、最近は簡略化されて板状になったものも多く見られるようになった。

実家の墓は金沢市郊外の野田山墓地にある。ここは、加賀百万石の開祖前田家の墓もある、金沢で最大の墓地である。僕は子供の頃からここに墓参りに来ていたので不思議には思わなかったが、他の地方ではここまで広大な墓地というのはなかなかないらしい。墓地と言っても、金沢市街を見下ろす小高い山の斜面にあって開放感があるせいか、陰気さや薄気味悪さは(少なくとも明るい昼間のうちに訪れるのであれば)あまり感じない。天気さえよければ、ちょっとしたピクニックのようなものだ。

今日の墓参りに訪れたのは、実家に一人住まいの母と、兄夫婦とその息子、そして僕と妻。別に疎遠になっているわけでもないが、こうして一同に集まる機会も意外に少ない。墓参りは、家族が集まるよい機会となっている。墓参りそのものはつつがなく終わり、夜は皆で食事に行った。反抗期真っ盛りの甥に、雑談めかして少しばかり説教をした。改まって話をするこういう機会もまた、思ったより多くないもので、そういう意味でも墓参りは貴重な行事だ。墓の下で眠っているご先祖様には少しばかり申し訳ないが、言ってみれば墓参りをだしにして家族や親戚との交流を深めているようなものだ。

墓を作らないことを選択したり、墓を持ちたくても持てなかったりする人も多い昨今だが、墓参りには先祖供養という意味の他にも、今日の僕の家族のように親戚どうしのつながりを確かめ合う意味もある。墓という形が変わっていくのは、時流ゆえにいたしかたない部分もあるだろうが、このような人と人との繋がりを確かめられる行事は、何らかの形で残って欲しいとも思う。