法事は何のために、誰のために行うのか

今日は実家で法事に出た。亡父の七回忌、他もろもろのご先祖の供養。

うちの実家はあまり親戚付き合いが活発なほうではなく、今日の法事に来たのは僕と嫁さん、兄夫婦と甥(県外の大学に行っている姪は来ず)だけである。母と合わせて6名で仏壇の前に。

僕はまあいい年をした大人なので、お坊さんがお経をあげる2、30分くらいは正座してじっとしているのもいとわないが、隣の高校生の甥は退屈そうだった。まあ確かに、なんで小一時間もじっとして、意味の分からないお経を聞いてなければいかんのか、もし僕が問われても明確な答えはできない。法事とは、供養とはそういうものだとしか答えようがない。僕だってお経の意味などわからないし、実家の宗派である浄土真宗についても知識は乏しい。親鸞が開祖で、蓮如さんが北陸で真宗を広めて、といった教科書的な知識はあっても、肝心の教義についてはほとんど知らない。ちなみに今日は「正信偈*1を冊子をみながらぶつぶつと唱和したのだが、もちろん内容はちんぷんかんぷんであった。

そんなことを考えているうちにお経が終わり、お坊さんの説教、というほどでもないが、まあお話を聞く。すると偶然にも、お坊さんは僕が思っていた疑問の答えになる話をしてくださった。曰く、法事を行うのは何のためだと、皆さんは思いますか、と。亡くなった方の供養のため、と答える人は多いと思うが、本当にそうでしょうか、と。お坊さんは、「これが正しい答えかどうか私にもわからんがやけど」と金沢弁で前置きをして、次のような一つの答えをお話しになった。すなわち、年に一度でも、こうして亡くなった方に縁のある人たちが集まる機会があること、つまり亡くなった方が縁となる、それが法事の意味ではないかと。僕の解釈も混じっているので、若干ニュアンスは違うかもしれないが、大意は間違っていないと思う。縁、という言葉を強調されていたのが印象に残っている。

この解釈に従えば、法事というものは亡くなった人のためのものではなく、遺された人のためのものである、ということなのだろう。葬式も同じこと。故人を供養することは、遺された人間の心を整理する、整えることとほぼ同じなのではないかと思う。現世に生きる僕たち人間は、亡くなった人に意思を伝えることは出来ない。そもそも亡くなった人がどこに行くのか、亡くなった人の意識は消えてなくなるのか、さえ僕たちにはわからない。ならば、供養とは、少なくとも亡くなった人に何かを伝える儀式ではない。そうではなく、「亡くなった人に伝えたかったこと」――おそらく多くの場合は故人への感謝――を、遺された人間が再確認する、それが供養というものではあるまいか。

僧侶でもなければ熱心な信者でも何でもない僕の解釈なので、正しいのかどうかはわからないが、そんな風に考えれば、長い法事や意味の分からないお経に退屈することも少しはなくなるのではないかと思う。

*1:読み方は「しょうしんげ」。浄土真宗の開祖である親鸞が書いたお経。正確にはお経ではなく、親鸞が著した聖典にある「仏教サイコー昔の坊さんマジリスペクト」(意訳)という内容のポエム。詳しくはググれ。