ぼたもちと幽霊の話。と言うと日本むかしばなしにでも出てきそうだがそういう話では全然ない。

【牡丹餅好きの大福嫌い】
[読み]ぼたもちずきのだいふくぎらい
[意味]人の好みは理屈では説明できないものだ

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はい、創作(でたらめ)ことわざです、僕の。実はこれは僕自身の好みである。今はどちらも好きだが、以前はおはぎは大好物のくせに大福餅は食べられないくらい嫌いだったのである。どっちも材料は似たようなものなのにね。あんこと餅の位置が逆になってるだけで。

まあ、それには理由があって、小さい頃に僕は大福餅で食中毒を起こしたことがあるのだ。僕の人生で初めての点滴を受けた経験であり、今に至るまで唯一の入院の経験だった。そういうトラウマがあったから、味覚として感じるより先に、食べたくないという拒否反応が起こっていたのだろう。

大人になるにつれて、そういった原始的な感情の反応を理性で抑えることを覚えてから、大福餅も美味しく頂けるようになった。それは、大人になってから幽霊を怖がらなくなってきた過程に、ちょっと似ている。僕は幽霊などの心霊現象については否定も肯定もしないように心がけている。現在の科学で解明されていない現象なのは確かだが、科学で未解明の存在を否定することはそれこそ「科学的な思考方法ではない」からだ。科学で解明されていないものは、白黒付けずにカッコ付きの状態にしておくのが、科学的なアプローチであり、逆に科学で証明されないものをすべて否定してしまうのは、科学原理主義という宗教に知らずはまっている状態に他ならない。おっと、話が少しそれたが、今の僕は、幽霊はあまり怖がらない。正確には、普段の生活で幽霊と出会うことを恐れることはなくなった。暗い夜に一人でトイレに行くのも平気になったということ。これはつまり、理性が経験に基いて幽霊に会うことはめったにないと判断し、恐怖という感情を抑えられるようになったから、だと僕は考えている。恐怖という感情がなくなったわけではない。僕は未だにホラー映画は苦手だし、お化け屋敷には絶対入りたくない。が、普段の生活において幽霊を過度に恐れる必要はないと、経験を積んで判断できるようになったわけだ。大福餅を食べられるようになったのも、大福餅が常に食中毒を引き起こすわけではないと理解し意識に刻みこめたから、かつてのトラウマからの感情の発露を抑制することが出来るようになったわけで。

何だかまとまりがなくなってしまったが、つまりは恐怖という感情は、その恐怖が引き起こされる理由や過程を知ることで、理性によって抑えることが出来るという結論になるだろうか。恐怖に限らず、怒りや悲しみや鬱屈などのマイナスの感情は、その感情が生まれた根源を理解することで、ある程度は軽くなるものなのかも知れない。